去る4月28日、下北沢の劇場シアター711にて、劇団「風雲かぼちゃの馬車」の舞台「一遍~地演出編~」を観てきました。3月中旬に観た「一遍~天演出編~」に続く同じタイトルの公演ですが、「天」「地」と銘打っているように、演出に手を加えているとのことでした。それが物語にどのような違った切り口を見せるのかも楽しみの一つでした。その違いは舞台が狭くなったことによる美術や演出などの変更が主で、脚本や登場人物には大きな変更はありませんでしたが、主要キャストが変わったり、全編にわたり台詞や演出の細かな違いがあって、新たな気持ちで楽しむことができました。およそ一時間半くらいの公演時間中、「天演出編」を観た自分をまったく飽きさせることはありませんでした。

前回「天演出編」と比べると舞台が狭くなった分、例えば舞台下手(左側)の印象的かつ効果的な簾越しのスペースがなくなったり、例えば刀を持たずに殺陣を演じるなど、全体的に小ぢんまりした印象はありましたが、芝居自体の迫力は損なわれていなかったと思います。同じ演目でも劇場に合わせて演出を変えることで、また違った一面を提示できるところに、演出の妙を感じました。
狭くなった分濃密な躍動感でもって、いつものように「歌って踊って人を斬」りまくっていました。

物語は、親族間の確執や母親との悲劇的な別れや一族の没落、出家と還俗と再度の出家、妻子を持ったことなど、主人公一遍の生い立ちや人となりや生涯が細やかに描かれていました。世俗の人として人生の不条理に苦悩し、僧として衆生を救う活動をしながらなお世の矛盾に煩悶し続ける姿が印象的でした。
出家した先の寺の修行僧、大日房・大月房兄弟に彼らの母の末期を看取らせるべく奔走し、結果禁を犯したその責を一身に負おうとするエピソードでは、一遍の生来の慈愛に満ちた性格がよく描かれていました。
兄弟子?に当たる僧・華台(けだい)が一遍に、真理や宇宙など宗教的な思想や世界観を語るモノローグは、その後一遍が向かうべき信仰の高みを指し示す象徴的な場面でした。
一遍と対立する僧・兵部(ひょうぶ)や、元寇(げんこう)で敵兵として日本に上陸した高麗人戦士ハンヨンとの交わり、そして彼らの末路が、一遍を苦悩させる不条理の象徴的なエピソードとして語られていました。
問いかけがあって、明らかな答えは示されず、しかし観る者には一握の希望を抱かせる、見事な脚本だったと思います。

強く印象に残った役者は、まず主役一遍を演じた菅本生さん。恵まれた体や声を駆使して華のある演技で存在感を示しました。革命的な宗教者であり、また一人の悩める人間でもあった一遍の自由奔放さ、悲哀や苦悩や慈愛などを巧みに表現して、物語に奥行きを与えていました。
一遍に仕える下人・念仏房を演じた真野基範さんの演技も見事でした。持ち前のキャラクターで、コミカルにして人間味あふれる役どころを演じ切っていました。泣かせ所の独白は圧巻でした。
また高麗人ハンヨンを演じた宮内咲希子さんの殺陣の動きも見事でした。演技は若々しい分、抑圧された人間の闇に迫りきれていない印象もありましたが、発声も滑舌も感情表現もしっかりしていて、これからを期待させる女優さんだと思います。
他の役者さんたちも歌や演技がしっかりしていて粒揃いで、幕が降りるまで飽きさせませんでした。「風雲かぼちゃの馬車」の役者のレベルは、総じて高いと思います。

「天」と「地」を通して観て、「時宗開祖」「踊念仏」など断片の知識でしか知らなかった一遍上人に、僧としてだけではなく俗人としての波乱に富んだドラマがあったことが強く印象に残りました。もちろん脚本の相当の部分は想像や推測や脚色で、必ずしも史実と合致しないことは承知しています。それでも歴史の一断面が、歴史に名を残した人の生涯が、人と人との複雑で運命的な出会いによって形作られているのだと言うことが、テンポ良く刺激的かつ、わかり易く描かれていたと思います。

風雲かぼちゃの馬車の「一遍~地演出編~」、とても面白かったです。
たぶんもう観られないんだなーと思うと、大変残念であると同時に
貴重な舞台を観られたことに感謝したいと思います。

(吟遊詩人)

風雲かぼちゃの馬車
2005年12月、主宰、土井宏晃を中心として創立
感情に訴えかける作風で観客も暴風に巻き込み中
主宰・演出家:土井宏晃
劇作家:重信臣聡
http://fuuunkabocha.yokochou.com/